世も末じゃ

ちょい見たTV。どこかの寺だか神社が賽銭箱を監視するカメラをつけたと言う話である。
賽銭は本来神仏のものである。卑しくも神主や坊さんのものではない。賽銭泥棒はいかんが本当に腹を空かせて飢えに苦しんでいる人がいて、賽銭泥棒をしたとしても慈悲深い神仏は許してくれる。職がなく家もなく友達もなく家族もなく飢えに苦しんでいたとしたら僕だって賽銭泥棒をするかもしれない。この間も自動販売機の下を地面に横たわって小銭を捜している高齢者を見た。「私はそうはならない」と自信をもって言えるだろうか言えない筈だ。「きずな」とか「いのち」とか「たすけあい」とか盛んに言われているがそんなものはいい加減なものだ。こうした弱い者虐めの風潮がすすんでいる。銀行にお勤めする人にその話をしたら賽銭箱のお金は小さいと言っていた。
賽銭泥棒で命をつなぐ事が出来た人が後に感謝してその賽銭箱に賽銭を入れるかも知れないと想像して見てくれ!それが世の中と思いたい。
日本の豊かさは寺社の『柔らかさに』あった。教育の場でありコミュニティの場であり、哲学の場でもあった筈だ。
賽銭箱が壊されのではと言う話も聞いた。鍵の掛からない賽銭箱にすれば良い。
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by akiraogawaG | 2014-03-23 16:40
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