カテゴリ:芸術( 6 )

ちょいと

評価の定まった芸術家についてその評価を覆す事は難しい。これは「社会脳」の問題である。では評価の定まっていない芸術家の評価はどうだろう?これもまた「社会脳」の問題である。
コリウイルソンが。1956年、25歳の時に『アウトサイダー』を発表したこの作品の出だしの文は忘れ難いものだ。「アウトサイダーは社会の問題である。」
人は情報に元ずいて行動する。宣伝広告で莫大な利益をあげている。FaceBookやGoogleを見ても明らかだ。
人は何故「個人脳」での評価のランク付けを「社会脳」の下に置くのだろう。本当に其れは正しいのだろうか?
僕が子供の頃体験した事を一つしよう。小学校二年生の僕は学芸会で雄鶏の役をやる事になった。先生はリングに雄鶏の鶏冠をつけたものを作って来なさいと言った。母親に話した所リングより鶏冠のついた帽子の方が良いとさっさと作ってくれた。散々それじゃ嫌だと言ったのだか母親は譲らなかった。結果は母親の帽子の方が評価は上だった。
「個人脳」が「社会脳」を上まわった。
さて、ソロソロ結論を出さねばならない。
言い出した以上始末はつけねば、「自由」「Free」であることなんだよ!
誰にも犯す事の出来ない「自由」がひとりてひとりにある。それは尊厳!
NHK特集で「オウム事件」の番組を見た。
そこにもこの問題の核心にある。「個と集団」の問題が提起されている。
信仰と言う上位下伝と言う極めて厳格な組織のなかで個と自由が存在できるだろうか?
追記
NHK特集の後半にこんな批評が
: 捜査の失敗を、へらへら語る警察関係者にゃう。
オウム事件はお巡りさんの負け。
「組織脳」が機能不全でした。
間に合ったのに間に合わなかった。
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by akiraogawaG | 2012-05-25 09:41 | 芸術

俳句

パスタ皿 蝉飛び込んで 夏終る

私の句作である。何の面白味も無い句である。なぜ俳句を作る事を始めたか?

写真のキャンプションを書いているうちに俳句を書きはじめていた訳だ。
言葉変換を使っていると思わず面白い言葉に出会う。つまりだ私が書くのではなくiPhneが書いたものが面白い。

そう、詩人が宇宙から詩を聞き取るのと同じだね!
詰りは本当の自分は居るのだろうかと云う問いかけだ。
刻印の無いキーボードで文字を打つと云うのをネットで見た。
これは一つの考えるきっかけを与えてくれる。

ギターはフレットがある。こいつが演奏の邪魔をする。フレットを忘れている時良い演奏が出来ている。
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by akiraogawaG | 2011-09-03 21:29 | 芸術

二階堂正宏先生に会う。

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先日鎌倉で開かれていた「二階堂正宏、小山賢太郎、二人展」で何年ぶりかで二階堂正宏先生にお会いした。
先生のご本を二冊買ってしまった。「鬼平生可帳」「ムーさん2」前者は『あまりに下品なので途中で連載を切られた逸品です。』と云うサブタイトルがついている。後者は『早い、短い、小さいそれでも受けいれてくれる女たちがいる、ここにいる。』と云うサブタイトルがついている。いずれもやりまくるコント漫画である。なにをやりまくるのかそれは性交。交合。まぐわい。

大分前の話になるが二階堂正宏先生の二階堂にあるご自宅へ知りあいが連れて行ってくれた事があった。ギターを持っていってギターを弾いた。その時の様子を先生が似顔絵で描いたのがこの絵。先生は似顔絵を沢山描いているので忘れているに違いない。

その時先生は「私はドフトエフスキーを…」と云われた。風が吹けば桶屋が儲かる式の論理で行けば<性を描く事は人間を描く事になる。人間を描く事は世の中を描く事になる。世の中を描く事は政治を描く事になる。経済を描く事になる。世界を描く事になる。宇宙を描く事になる。宗教を描く事になる。>と果てしがなく続く。性とはまさしく奥の深いものである。

この二冊の本が今の偽善的世の中で一部の人たちに珍重され同時に多くの人に大きく非難されるのはしごく当然とも云える。偽善的世の中であるから本当の事云うことが非難される。本の中で先生は性を読者と共に笑い、苦しみ、遊んでいる。考えてみるとそれは二階堂正宏先生に始まった事ではない。我が国のとてつもなく古い時代から同じテーマは絵や文で繰り返されて来たことだ。先生はそれを現代継承としている。そうぼくが云うのは簡単な事だが、仕事としてそれをやり抜くのはそりゃ大変な事だ。まずは、私は危険人物ですよと世の中に向かって自己宣言しているような仕事だ。ほんとうは何も危険人物ではない先生なのだから、二律相反に生きなければならない。それを反転させた生き方を殆どの人が選ぶ。そうして善男善女がうまれる。人は仮構に生きる。表現とはまさしく命がけの行為。先生はそれを成功させている。

相変わらず二階堂正宏先生の筆画は美しい。「速い、きれい、面白い」と云う三っが浮かんだ。

二階堂正宏先生の絵はここには乗せられない。著作権があるだろうし、またきっとインターネットサイトの監視官がチェックしているに違いない。ご覧になりたい方は本をお買いになる事ですな。
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by akiraogawaG | 2009-11-13 22:25 | 芸術

なんと明るい木村栄治さん!秋元潔を語る

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木村さんは朝早く私の家にやって来た。木村さんとはなんと初対面であった。電話で初めてお話したのがその四五日前。
木村さんは私が秋元潔と交流がなくなった時期(尾形亀之助を研究しているとの話を聞いた)頃からの長いお付き合いがあったそうだ。

始まりは私の作った秋元潔初期作品集のページ。お手紙をいただいた。その手書きの手紙は秋元潔への友情にあふれるものだった。
手紙の内容は、今年秋元潔の詩集を出す。そこで年表作りをしているのでページを参考にさせていただきたい。さらに私に会って直接話しを訊きたいと言うことであった。
その手紙には私も秋元潔に付き合ってガンになりましたとも書いてあった。電話の時「私の家に来る、ほんとうに大丈夫ですか?」と云う問いかけに「まだ、大丈夫」と答えがあった。
医者のすすめるガン治療を断って漢方と自分の生命力だけを頼って生きるまで生きると初対面の私に明るい表情で話される。
この明るさはどこからくるのだろう。<諦観>とは明るさをもたらすものなのか?それとも私に見せている表側の表情?

私には分かるようで分からない。

木村さんの話「私は長い間、同人誌や詩集の編集出版をしてきた。自分でも詩や俳句を作って来たが、何故、秋元潔の作品が日本の詩壇で認められないのか分からない。
<人間性に問題がある秋元潔>と云うことでどこの出版社も秋元潔を無視する。「なぜだ、なぜだ。」と繰り返す。
話は日本の現代詩とは?日本の社会構造とは?横須賀から考えるアメリカの軍事戦略とは?なぜ、尾形亀之助を秋元潔が研究したのか?に絞られて行った。
さらに秋元潔の死ぬ前の2年間の孤独で苦しかった晩年のこと、かっての詩の仲間達との交流と離反。と話は尽きることなく続いた。

……お昼になったので一緒に近所のお店へ食事に行きませんかと誘ったところ、食道ガンがあるので食べるのに時間がかかるから嫌だと云うので、それでは私がサンドイッチを作る、それにコーンスープの缶詰めを空けましょうと勧めると、それではそれをいただきましょうと云うことで私の家での昼食になった。
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by akiraogawaG | 2009-04-14 22:29 | 芸術

西脇画廊

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 26年前、私はふらりと鵠沼海岸の小さな画廊に入った。絵をぶらぶらと眺めていたら、そこの画廊の主人が「あなたは何をしている人?」と話しかけてきた。それがはじまりになって画廊コンサートが始まった。
毎月小さな画廊にかなりの人々が集まって来てギターの演奏をした。ギター独奏ではとても毎月プログラムを組むことが出来ない。そこでいろいろなギターと楽器や歌とのコラボが始まった。私がいまでも続いているギターと他の楽器や歌とのコラボはここに原点がある。まさしく仕事をしながらの勉強であった。
その西脇画廊を先日ふらりと訪ねてみた。年を重ねても少しも変わらない画廊の主人と奥さんとで話しがはずんだ。
 ここで買った絵が一枚私の手元にある。山高 登さんと言う人の作品だ。山高 登と言う名前がまず面白かった。大手の出版社で美術関連の仕事をしていた山高 登さんは退職して行く人が退職後まもなく亡くなるのを見ていて、仕事のし過ぎが命を短くすると考えた。たまたま自分が趣味で描いていた絵の展覧会をしたところ売れた。そこで会社を辞めて画家になったと話していた。私がこの絵を買った訳は私が育った湘南の風景画が欲しかったのと、この絵が実はガラス絵であることが面白かったからである。絵を持つことなんぞ私には無いと思っていたから誰か知り合いがお店でも持ったらプレゼントしようと思ったからだ。西脇画廊さんとのお付き合いの気持ちもそこにはあった、絵はある時払いの催促なしと言う条件で買った。私が買ったこのガラス絵は誰も知り合いが店を持つことなんぞなかったから、私の手元にあってリビングの飾り絵になって無関心のまま何年もいまも放置されている。
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by akiraogawaG | 2009-02-24 22:43 | 芸術

横浜トリエンナーレで土方巽に出会う。

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芸術は現実社会よりも上でなければ意味がない。
横浜トリエンナーレの作品を観ていてつくづく現実社会の方が上だと思った。「金融危機」「振り込め詐欺」「貧困ビジネス」の方が上だ!人間の想像力、人間の心を動かすこれらの事件の方が技が上なのである。芸術を「玩具」と言うのならそれはそれで完結してしまう。しかし「芸術」は玩具ではない。未来に向かってのメッセージだと思う。特に横浜トリエンナーレはそうした催し物であるはずなのにそれが希薄だ。ここで観られた新しい素材作品は面白いが、60年代70年代の現代芸術を観てきたものにとっては閉塞感を感じてしまう。

「土方巽」の舞台映像に人が群がっていた。ひどいぼやけた映像の「土方巽」が踊っている。「踊り」とも「のたうち」も分からない虫の喘ぎのような踊りは不思議な魅力に溢れている。芸術は現実社会が極度な貧困でも存在するし、豊かな社会でも存在する。何故なら「人は誰でも芸術家」であるからである。ただ表現するか表現しないかのわずかな差が人を2分する。後は技術である。三年前の横浜トリエンナーレの方が上だった。こうした衰退していくお祭りはいずれ無くなるだろう。それも仕方ないことだ。唯一進んだのは会場での写真撮影が認められた事位だ。
*写真は展覧されている作品ではありません。
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by akiraogawaG | 2008-11-05 08:37 | 芸術