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自分が見ている

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お金を稼ぐためなら何をしてもよいと言う風潮の世の中である。見つからなければ不正を働いてもと言う世の中らしい。
TVで禿頭をを下げているおじさんたちも本当に悪いことをしたと詫びているようには見えない。
「運が悪かった」「あの野郎が内部告発をしなければ」と思っているはずだ映像とは正直なものだ。

何時からかそんな世の中になってしまったのだろう。背景のひとつに消費生活の変化が上げられる。ワンルームのアパートに住んでいても車は必要不可欠。携帯電話は必要不可欠。TVは必要不可欠と必要不可欠が限りなく増殖する。

「食い物」よりも優先順位が上の「携帯電話」。食い物は何時でもあるから選択項目には無い。

ところで私はどうだろう?と考える。私も例外では無い。もうそろそろこの辺で生活を変えようかと思っている。

車は昔から持っていなかったらそれで良い。TVは何十年も持っていなかった時期があった。いまは持っているが人から貰ったもので自分で買った物ではない。しかし私の住んでいる所は電波状態が悪いのでケーブルTVを引いているので毎月料金がかかる。さらにNHKの受信料。TVはニューズと特集番組位しか見ないので、ワンセグがもし使えればTV本体は止めよう。では携帯電話はどうしたら良いのだろう。先日2年は契約を破棄できない機種を持ってしまった。わ〜。罠にはまってしまった!。

さて本題に戻ろう。

不正が発覚しなければ何をしても良いと言うほどに人生は甘くない!

「自分が見ているから」である。

子供の時から大人になって行く時期、その問題にぶつかった。大人達と激突を繰り返した。まず両親であった。親たちはさぞや困ったことだっだろう。息子の言っていることが正しくとも、親は時代に合わせた生き方で生活が出来ているのだから「世の中そんなものじゃない」としか言いようがなかったに違いない。

ああ…、私は重大な問題をぶり返してしまうようだ。どうしよう?やめようか?やりはじめた事なので最後まで行こう。

母方の祖父がその池上本門寺の宮大工をしていたと言う話がある。
そんなことで、子供の頃多分東京の池上本門寺に連れて行かれた事があった。
参道にあしなえの乞食がいて襤褸をまとって物乞いをしていた。恐ろしい風景だった。
そして親から「悪いことをすると地獄に堕ちて針の山を登らされたり、火あぶりにされる」と言うような恐ろしい話を聞いた。私の中で永らく刻印を押された忘れられない事だった。

私の父方の祖父はは長野県飯田から東京に出てきて事業の成功をなしとげた。日本の中小企業の先駆けだった。工作機械メーカーとして成功した。

戦争の激化と共にその息子達は軍事産業に参画して多大の利益を得た。地方から若者達を集め共同宿舎で暮らさせ労働力を確保した。病気になると多少の金をあてがい故郷に帰した。

最近分かった事だが私の母はそうした若者達の世話をしながら、若者達の慰めになるような演劇や音楽や野球などを企画していたらしい?
そう言えば子供の頃周りに何もなかった時代に革製のグローブやバットがあって、それで遊んでいた。ハーモニカバンドもあって父がそこに参加していたのも覚えている。そんな事を知って私は多少慰められた。

しかし戦争企業と搾取の上に成り立っていた自分の家族が一時の繁栄を懐かしんだり素晴らしい事だったと話す事に増悪の気持を押さえられなかった。

それが親たちとぶつかり親戚の叔父達とぶつかる原因だった。「こんな家に居たくない!」「こんな息子はどこか遠くに行けばよい」と言う両者の思惑が一致して家を出た。横浜の中心街にアパートの一部屋を借りた。そこでギターも教えた。今だったらとても生徒が来るような場所ではなかった。やくざと街の売春婦と訳の分からない人達の住むアパートだった。真夜中過ぎから騒がしくなるような場所だった。不思議なことだが生徒さんはよく集まった。そこのアパートを紹介した楽器店の主人は「どんなひどいところでも要はその人」と言ってくれた。またまた不思議なことだがアパートの魅力に惹かれて何人かのギターリストがそのアパートに集まって来た。

「曙荘」中区曙町にあった。

おっとと…本題に戻ろう。

自己意識は自己罪悪に繋がった。二十歳前、キリスト教の原罪論に惹かれて「聖書」をむさぼり読んだ。しかし神は存在するか?存在しないか?で戸惑い切り捨て、実存主義に走った。アンリ・バルビスを読み椎名燐三を読み、カミューを読み、サルトルを読んだ。理解と不理解が延々と続いた。

そしてコリン・ウイルソンにたどり着いた。ウイルソンの「アウトサイダー」を読んだとき目の覚めるような思いをした。この本は主に19世紀の何人かの芸術家を題材にした。この論文は私が何者かを教えてくれた。その「アウトサイダー」の冒頭。

「アウトサイダーは社会問題である。」

いまの世の中の理由のない殺人事件やテロの問題は実存主義者の考えた問題が現実になっている。19世紀、20世紀初頭までは特別な人達の問題であったが、21世紀では世界全体のシステムの問題にまでは展開している。繁栄と貧困とテロ。

もっと恐ろしいのは次に来るべき悪魔の時代である。それはもう始まっている。「悪魔はいない」とみんなが信じることが悪魔にとって好都合なのである。

例えばここで思い起こすことの一つが「ファンド」の仕組みだ。退職金を「ファンド」に投資している人は先進国では多い。そのお金を集めて世の中を動かしお金を儲け配当を支払う。自分の出したお金が戦争をする費用にもなっていて人類の不幸に荷担しているかも知れないと思う一般投資家は少ない。一般投資家は自分のお金が多少とも増えればそれで満足。つまりは銀行利子よりは良かった位の気持ちしかない。しかも彼等は概ね純朴な人達である。加えてリスクそのものがあると説明しているのだから損益を出しても「ファンド」は責任なんかとらない。

私は銀行の仕事もファンドの仕事も否定はしない、役割はある。しかし「お金儲け」優先順位第一であるから、社会的倫理観は軽んじられる、これ当たり前の事だ。

大きなお金は無論新しい企業を立ち上げて、雇用を生み出してもいる。しかし純朴な投資家は自分は知らずに戦争殺人補助罪を犯している事だってありうるとは思わない。純朴な投資家は私は信仰深い生活を送っていると思いこんでいる。そこには悪魔は見えない。「見えないマントを私は着ているものね!」悪魔は笑っている。

私ももしかしたら私が生きることで他人を苦しめているかも知れないと思う事がある。それならば消えることのない罪の意識で生きる、つまりは犯罪者として無期懲役のような生き方をすることを選んだ。

その生き方こそが私を成長させると自覚した。しかしそれにも弱点があった。犯罪者としての意識とはある種の情緒感を伴うことがある、そこで私は情緒感を少しずつ削除する事で自分を自分で成し遂げねばならない。涙なしの人生を生きる事になる。

情緒、感情に生きることは自己破壊に繋がって行く。多くの芸術家の失敗もそこに起因する。

さてもさて話はどんどん個人的な横道に入ってしまった。

「自分が見ている」とは自己倫理の問題である。

もし、私も貴方もお金に困れば盗みをするだろうし、不正だつてするだろう、だからそうした環境を作らないように心がけるべきである。

私が行っている「断食週間」を教えよう。お金があろうが無かろうが一週間2千円で暮らしてみる。まずは食べ物で困る。冷蔵庫の中を調べ多少賞味期限の切れた食品を食べ、自転車外出以外はしない。十円から百円単位のお金の出し入れで一週間を過ごしてみる。お金の大切さ、食べ物の大切さ、人からご馳走になった時の感謝の気持ちが感動的である。寧ろ快感ですらある。

「欲を捨てること」「1日は24時間しかないことを知ること」

人間は錯覚する。先端技術の発達は人に何でも出来ると錯覚させる。精神的に永遠に生きることだって出来そうな気がしてくるのである。これは間違いだ。








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by akiraogawaG | 2007-12-04 09:06